皆川猿時の若い頃の3大失敗!劇団員になれず借金まで抱えた苦労人時代

皆川猿時の若い頃の3大失敗!劇団員になれず借金まで抱えた苦労人時代

2025年10月30日更新

皆川猿時さんといえば、現在は「あまちゃん」や「あなたの番です」など数々の人気作品で活躍する個性派俳優として知られています。

しかし、その成功の裏には想像を絶する苦労の日々がありました。

調べてみると、若い頃の皆川さんには「3大失敗」とも呼べる挫折があったことが分かりました。

この記事でわかること

  • 皆川猿時が18歳で経験した東京乾電池研究生時代の失敗
  • 劇団員になれなかった挫折と自主公演による借金
  • 週6日12時間労働を13年間続けた下積み時代の実態
  • 31歳でようやく掴んだ俳優としての転機

若い頃の苦労を乗り越えて今の地位を築いた皆川さんの物語を、最後までご覧ください。

目次

皆川猿時の若い頃の3大失敗!

皆川猿時さんの若い頃には、大きく分けて3つの失敗がありました。

それぞれが俳優人生を左右する重大な出来事でした。

失敗その1:東京乾電池研究生時代の挫折

皆川さんは18歳で福島から上京し、柄本明さんが主宰する劇団「東京乾電池」の研究生になりました。

当時の先生は、劇作家として知られる岩松了さんでした。

しかし、皆川さんは芝居の厳しさをまったく理解していなかったといいます。

「研究生公演で、指示出しをした岩松さんが後ろを向いた瞬間、おちゃらけたら、バーン!『田舎に帰れ』と言われました」

出典:zakzak(2015年2月4日報道)

真剣にレッスンを受けるべき場面で、ふざけてしまった皆川さん。

岩松さんが振り返った瞬間、スリッパで叩かれたそうです。

「田舎に帰れ!」と叱られることがしょっちゅうあったといいます。

「追いつめられていたのはむしろ、上京して東京乾電池の研究生としてレッスンを受けていた18歳の頃。岩松了さんが先生だったんですけど、岩松さんが後ろを向いた瞬間に僕がヘン顔をしてふざけたりしていたので、振り返った時にスリッパで叩かれたり(苦笑)。しょっちゅう『田舎に帰れ!』と叱られていました。当時の僕は、芝居の厳しさ、難しさをまったくわかってなかった。劇団員になれなかったのも、当然だと思います」

出典:AERA dot.(2016年7月11日掲載)

芝居に対する真摯な姿勢が欠けていたことを、皆川さん自身も認めています。

この態度が、次の失敗へと繋がっていきました。

ただ、ここで気になるのが、俳優を目指して上京したはずなのに真剣になれなかった理由です。

実はその背景には、意外なきっかけがありました。

「おニャン子クラブの渡辺美奈代ちゃんが好きで、それで会いたくて。役者になれば会えるんじゃないかと思って」

出典:スポニチ(2022年3月9日報道)

アイドルに会いたいという純粋な憧れが、演劇の道に進んだきっかけだったのです。

さらに、こんなエピソードもあります。

「渡辺美奈代ちゃんが渡辺徹さんと共演してて、兄弟の役で。で、徹さんが太り始めた時期だったんですよ。こういう太った人でも美奈代ちゃんと共演できるんだみたいな。だったら俺でもいけるかもみたいな感じで役者になろうと思いましたね」

出典:スポニチ(2022年3月9日報道)

演劇そのものへの情熱ではなく、「アイドルに会える手段」として俳優を選んだ18歳の若者。

厳しい演劇の世界に放り込まれた時、現実と理想のギャップに戸惑ったのも無理はありません。

岩松さんが「後ろを向いた瞬間」にふざけたという描写も印象的です。

先生が見ていない時だけふざけるというのは、叱られるのは怖いけれど、心から演劇に向き合う気持ちはなかった証拠でしょう。

18歳という若さで、自分の甘い動機と演劇の本質的な厳しさの間で、皆川さんは苦しんでいたのかもしれません。

失敗その2:劇団員になれなかった挫折

東京乾電池での研究生時代を経て、皆川さんは劇団員への昇格を目指していました。

しかし、結果は不合格でした。

ふざけた態度で臨んでいた研究生時代のツケが回ってきたのです。

劇団員になれなかったことは、皆川さんにとって大きな挫折でした。

夢への第一歩が閉ざされた瞬間でした。

当時のことを振り返り、「劇団員になれなかったのも、当然だと思います」と語っています。

この挫折が、皆川さんを次の行動へと駆り立てることになります。

ここで注目したいのは、不合格になっても諦めなかったという点です。

普通なら、劇団員になれなかった時点で演劇の道を諦めるきっかけになります。

しかし皆川さんは、同じく不合格だった研究生仲間と自主公演を始めました。

この行動の変化には、大きな意味があります。

おそらく研究生時代を通じて、皆川さんの中に本物の演劇への興味が芽生えていたのでしょう。

最初は軽い気持ちでしたが、岩松了さんに叱られ、仲間と稽古を重ね、舞台に立つ経験を積むうちに、演劇そのものの面白さに気づき始めていたのです。

だからこそ、不合格という結果を受けても、諦めずに自分たちで道を切り開こうとしました。

失敗その3:自主公演で作った借金

劇団員になれなかった皆川さんは、同じく残れなかった研究生仲間と組んで行動を起こしました。

自分たちで台本を書き、3本の芝居を上演したのです。

しかし、この自主公演が大きな借金を生むことになりました。

「その後、もう一人の劇団に残れなかった研究生と組んで自分たちで台本を書き、3本の芝居を上演した。そのことで借金を作ってしまい、冒頭の”記憶のない1年”を過ごすことに。」

出典:AERA dot.(2016年7月11日掲載)

この借金が、皆川さんの22歳の1年間を奪うことになります。

記憶から完全に抜け落ちてしまうほど、過酷な日々が始まったのです。

3つの失敗は、それぞれが次の困難を生み出していきました。

ふざけた態度→劇団員不合格→自主公演での借金という、負の連鎖だったといえます。

ただ、この「3本の芝居を上演」という事実には、別の意味も見えてきます。

1本だけでなく3本も上演したということは、相当な労力と時間、そしてお金がかかります。

それでもやり遂げたということは、皆川さんの中に確かな情熱があった証拠でしょう。

当時の演劇界では、小劇場ブームが盛り上がっていました。

若手が自主公演を打つことで注目され、劇団にスカウトされるというルートが存在していたのです。

皆川さんも、「自主公演で認められれば、道が開けるかもしれない」という期待があったのでしょう。

また、東京乾電池を不合格になった以上、もう後がなかったという切実な状況もあります。

このまま何もせずに福島に帰るのか、それとも最後の賭けに出るのか。

皆川さんは後者を選び、借金をしてでも自分の可能性を試そうとしたのです。

劇団員になれず借金まで抱えた苦労人時代

自主公演で作った借金は、皆川さんの人生を大きく変えました。

返済のため、芝居から完全に離れた生活が始まったのです。

記憶から消えた22歳の1年間

皆川さんには、22歳の時の1年間の記憶がすっぽり抜け落ちているといいます。

借金返済のために、ひたすらアルバイトに明け暮れた日々でした。

「記憶から、22歳の時の1年間が、すっぽり抜け落ちていると皆川猿時さんはいう。芝居でできた借金を返済するために、ひたすらアルバイトに勤しんだ。楽しいことなど何もない。ただ毎日のノルマをこなすだけの1年。」

出典:AERA dot.(2016年7月11日掲載)

楽しいことは何もなかったといいます。

ただ毎日のノルマをこなすだけの、無味乾燥な1年でした。

人間の記憶から消えてしまうほど、辛い時期だったということです。

この1年間について、皆川さんは「特別つらかったわけではないと思う」と語っています。

しかし、記憶に残らないほど単調で過酷だったことは間違いありません。

記憶が完全に消えるというのは、実は非常に珍しい現象です。

人間の記憶は通常、辛い経験ほど鮮明に残るものです。

それが消えているということは、毎日が全く同じで、感情の起伏も何もない日々だったということでしょう。

起きて、働いて、寝るだけ。

何の変化もない、希望もない、ただ借金を返すためだけの機械的な生活。

そんな環境では、脳が記憶を形成する必要性を感じないのかもしれません。

興味深いのは、「特別つらかったわけではない」という表現です。

これは一見矛盾しているようにも思えますが、皆川さんは18歳の研究生時代の方が追いつめられていたと語っています。

18歳の時は、「俳優になりたいのに真剣になれない自分」との精神的な葛藤がありました。

一方、22歳の時は、感情を完全にシャットダウンして淡々と作業をこなしていた。

つらいと感じる余裕すらなく、ただ生き延びるためのサバイバル期間だったのです。

串揚げタローで13年間働いた下積み生活

借金を返済した後も、皆川さんの下積み生活は続きました。

新宿の串揚げ屋「串タロー」で、13年間もアルバイトを続けたのです。

特に最初の1年間は過酷な労働条件でした。

「22歳の時なんか、バイトしてた記憶しかないです。新宿の串焼き屋さん「串タロー」で週6日、一日12時間ぐらい働いてましたね。」

出典:日本経済新聞(2023年10月17日掲載)

「皆川猿時さんは、役者で食べていくのが大変だった下積み時代に「串揚げタロー」で13年間バイトしながら活動していました。最初の1年間は、週6日で毎日12時間労働でした。」

出典:子育てことば(2025年1月13日掲載)

週6日、1日12時間という労働を、最初の1年間は毎日続けました。

普通なら心が折れてしまいそうな環境です。

しかし、皆川さんはこの串タローで13年間働き続けました。

同じ場所で13年間も働き続けたというのは、並大抵のことではありません。

多くの俳優志望者が様々なバイトを転々とする中、皆川さんが一つの場所に留まり続けられたのには理由があります。

一つには、24歳で大人計画に入れたという「希望」の存在です。

借金返済期間とは決定的に違うのは、夢に向かって進んでいるという実感があったこと。

バイトをしながらも舞台に立てる、芝居ができるという環境が、皆川さんを支えたのでしょう。

また、串タローという一つの場所に定着したことで、生活の安定が生まれました。

職場の人間関係も構築され、仕事にも慣れていきます。

この安定が、逆説的に夢を追い続ける支えになったのです。

さらに重要なのは、接客業を通じて様々な人と接する経験です。

新宿という繁華街で、様々な背景を持つ客と接した13年間は、単なる生活費稼ぎではなく、人間観察の場でもありました。

現在の皆川さんが演じる「庶民的で親しみやすいキャラクター」の原点は、この串タロー時代にあるのかもしれません。

「あまちゃん」の磯野心平先生や「あなたの番です」の水城刑事といった、人情味あふれる役を説得力を持って演じられるのは、この下積み時代で培った「普通の人の視点」があるからでしょう。

24歳で掴んだチャンス:大人計画オーディション合格

借金返済の1年を経て、皆川さんは再び芝居の世界に戻りました。

24歳の時、松尾スズキさん主宰の「大人計画」のオーディションに合格したのです。

「24歳で大人計画のオーディションに合格した。」

出典:AERA dot.(2016年7月11日掲載)

これが、皆川さんの俳優人生の大きな転機となりました。

1994年のことでした。

大人計画での活動が始まりましたが、生活は依然として厳しいままでした。

串タローでのバイトは続けざるを得なかったのです。

18歳の時は東京乾電池の劇団員になれませんでしたが、24歳では大人計画のオーディションに合格しています。

この6年間で何が変わったのでしょうか。

最も大きな変化は、皆川さん自身の覚悟です。

自主公演で借金を作り、1年間の記憶を失うほどの苦労を経験した皆川さんには、もう後戻りはできませんでした。

俳優として成功するしかない。

その覚悟が、オーディションでの演技に表れたのでしょう。

また、劇団の特性の違いも重要です。

東京乾電池は正統派の演劇集団ですが、大人計画は松尾スズキさんが率いる、独特の笑いとシリアスを融合させた劇団です。

18歳の時に「ふざけてばかり」だった皆川さんの性格は、東京乾電池では欠点でした。

しかし大人計画では、その個性が逆に武器になった可能性があります。

同じ人間でも、環境が変われば評価が変わる。

皆川さんは、ようやく自分に合った場所を見つけたのです。

実は、皆川さんが大人計画を知ったきっかけも興味深いものがあります。

「串タローでバイトに明け暮れていた時期にも、舞台だけはいろいろと見ていたんですよ。」

出典:日本経済新聞(2023年10月17日掲載)

バイト漬けの生活の中でも、演劇への情熱は消えていなかったのです。

様々な劇団の舞台を見て回り、自分に合った場所を探していました。

そして大人計画の舞台を見て、衝撃を受けたのでしょう。

夢を諦めていなかったからこそ、チャンスを掴めたのです。

31歳でついにバイト卒業

大人計画に入ってからも、皆川さんはバイトを続けました。

「生活のため」という言い訳のもと、串タローで働き続けたのです。

転機が訪れたのは31歳の時でした。

「”生活のため”というのを言い訳に続けていたバイトを辞めたのが31歳のときでした」

出典:AERA dot.(2016年7月11日掲載)

31歳でようやくバイトを辞め、俳優業に専念することを決意しました。

このとき初めて、皆川さんの目標が変わったといいます。

「役者として食えるようになる」ではなく、「面白いことができる役者になる」ことを目標に据えたのです。

18歳で上京してから13年間。

皆川さんは失敗と挫折を繰り返しながら、ようやく俳優としてのスタートラインに立ちました。

この長い下積み時代があったからこそ、現在の個性派俳優・皆川猿時が存在するのです。

24歳で大人計画に入ったのに、31歳まで7年間もバイトを続けたのには理由があります。

「”生活のため”というのを言い訳に」という表現から、皆川さん自身も本当は早く辞めたかったことが分かります。

それでも辞められなかったのは、経済的な不安が大きかったでしょう。

しかし、それだけではないはずです。

13年間も続けてきた安定したバイトを辞めて、不安定な俳優業だけで生きていく恐怖。

もし俳優として上手くいかなかったら、また借金時代に戻ってしまうかもしれない。

その恐怖が、皆川さんを串タローに繋ぎ止めていたのでしょう。

また、13年も働けば、職場の人間関係も構築され、仕事も慣れてきます。

この「慣れ親しんだ環境」を変えるのは、想像以上に難しいものです。

人間は変化を恐れる生き物です。

たとえ今の状況が本当に望むものでなくても、安定を手放すのには勇気が要ります。

それでも31歳という年齢で決断したのは、焦りがあったからでしょう。

俳優としては決して若くない年齢です。

「このままバイトを続けていたら、本当に俳優としての人生が終わってしまう」という危機感があったのです。

そして、目標の変化も重要です。

「食える」という経済的な目標から、「面白い」という芸術的な目標への転換。

これは、大人計画での7年間の活動を通じて、俳優としての手応えを感じ始めていた証拠でしょう。

「もう食えるかどうかを心配する段階は過ぎた。今は自分が本当にやりたい演技を追求する時だ」

そう思えるようになったのが、31歳というタイミングだったのです。

この決断が、後の成功に繋がっていきます。

まとめ

皆川猿時さんの若い頃は、失敗と挫折の連続でした。

ここまで見てきた内容を、要点としてまとめてみます。

皆川猿時の若い頃のポイント

  • 18歳で上京し東京乾電池の研究生になるも、ふざけた態度で「田舎に帰れ!」と叱られ続けた
  • 劇団員に昇格できず挫折し、研究生仲間と自主公演を行うも借金を作ってしまった
  • 22歳の1年間は借金返済のためアルバイト漬けで、記憶が完全に抜け落ちるほど過酷だった
  • 新宿の串揚げ屋「串タロー」で週6日12時間労働を13年間続けた
  • 24歳で大人計画のオーディションに合格するも、バイト生活は継続
  • 31歳でようやくバイトを辞め、「面白いことができる役者になる」という新たな目標を持った

つまり、現在活躍している皆川猿時さんは、18歳から31歳までの13年間という長い下積み時代を経験していたということです。

3つの大きな失敗を乗り越え、過酷な労働環境の中でも夢を諦めなかった結果が、今の成功に繋がっています。

皆川さんの若い頃を振り返ると、一つのことが見えてきます。

それは、すべての失敗と挫折が、今の成功に繋がっているということです。

18歳でふざけていたのは、不純な動機で演劇を始めたから。

しかしその経験が、本物の情熱との違いを教えてくれました。

劇団員になれなかったのは、真剣に取り組まなかったから。

しかしその挫折が、自主公演への挑戦という行動力を生みました。

借金を作ったのは、若さゆえの無謀さと情熱から。

しかしその借金が、絶対に成功しなければならないという覚悟を生みました。

記憶が消えた1年間は、あまりにも過酷だったから。

しかしその経験が、どんな困難にも耐えられる精神力を育てました。

13年間のバイト生活は、経済的な不安と変化への恐怖から。

しかしその13年間が、庶民的で親しみやすい演技の原点となりました。

31歳でバイトを辞めたのは、年齢的な焦りと目標の転換から。

しかしその決断が、本当の俳優人生の始まりとなりました。

2013年の「あまちゃん」でブレイクするまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。

18歳の失敗から始まった物語が、42歳でようやく実を結んだのです。

24年という長い時間がかかりましたが、その時間は決して無駄ではありませんでした。

若い頃の苦労があったからこそ、どんな役でも説得力を持って演じられる俳優になったのです。

失敗を恐れず、挫折に負けず、夢を諦めない。

皆川さんの若い頃のエピソードは、そんな大切なメッセージを私たちに教えてくれます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました

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